『東のエデン 劇場版II Paradise Lost』に感じるテーマと骨格の乖離

東のエデン 劇場版II Paradise Lost』を見て参りました。


賛否両論が割れているみたいなのですが、僕は否でした。
最も強く感じたことは、「映画の内容に相応しい器」のようなものは、やっぱりあるんじゃないかということです。


まず、『東のエデン』アニメ・映画を通じて、神山監督が語りたかったこと、志したことは素晴らしいと思います。
現在進行中の等身大の社会問題に真正面から向かむことの困難さは想像に難くありません。
そして、それをエンタテイメントの枠組みを守った上で、無理なく着地させた手腕は計りしれないなと素直に関心せざるを得ませんでした。


が、作品としてまとめるため、また、アニメ版で広げた風呂敷をきちんと畳むため、そのしわ寄せが劇場版後編に全部きてしまってます。


まず、やはり映画としての緩急やクライマックスは希薄なこと。
これは、パンフレットで監督が語られていましたが、アニメでも派手な最終回を希望されたため、ミサイル打ち落としという最大の山場を使ってしまっているわけです。これに代わる大きな見せ場、アニメーションとしてのダイナミズムが失われていることは残念なことこの上ないです。


二点目は、後半が、主義主張を登場人物がただぶつけ合う会話のみに終始してしまったこと。
「会話はエンタテイメントになる」という言葉は神山監督自身の至言で、私自身も非常に感銘を受けた言葉ですが、事実上の最終対決というべき、滝沢VS物部の対峙は、非常にのっぺりとした、悪く言うと盛り上がらないディベートとになったしまっていて、このシーンの演出は他にあったんじゃないかと思います。


最後に、纏め方が陳腐なものになってしまったことへの失望が挙げられます。「少しずつでも変わって行こう」という締めは確かに正論であり、反論の余地もないのですが、それはアニメに求めるものじゃないんですよね。
現実を軽やかに突破するカタルシスを期待する身としては、違和感しか残りませんでした。


以上のことを踏まえながら、ぼんやりと思ったことは、このテーマを扱うなら、やはりそれに相応しい器があったんじゃないかということです。
物語がシリアスな局面を迎えるにつれ、羽海野デザインのキャラクターや、ノイタミナ的オサレ感と、作品の根本にあるものが乖離しているように思えてならなかったわけです。
とても現実的な問題を扱ってるのに、キャラクターにはリアリティが全く感じられないという問題です。
その最たるが、主人公である滝沢君なわけですが。


攻殻機動隊S.A.C.』は私にとって、ゼロ年代ベスト1の作品でしたが、攻殻はテーマの忍ばせ方とそれを扱う器としての公安九課という存在が、マッチングしてたからこそ、アニメの中にリアリティを持たせられたんではないかと改めて思わされた次第です。


アニメの論旨とその骨格の親和性のことを色々考えつつ、結びます。